昭和五十六年六月十八日 月例祭
 いつも教帽を取って、汗を拭いて、そして帽子をかぶって鏡を見て必ず出てくるんですけれど、鏡を見ることを忘れとったから、はあよがんどらせんかなと、今こうして、いつも説教杓とこれと代えてくるんですけれども、忘れてこれだけば持ってきとる。なんかぼんやりして何を考えとっただろうか。ぼんやりしておったけれども、やはり考えておることはなんか考えておる。
 よく新聞やらテレビやらを見ながら、あっと今読んだところは何だったかな。テレビを見とって何を言うておったかな。そのテレビはいっちょん物は言いよりませんよと時々言うことがあるんですよ。そればやっぱり見よる。ぼんやりしてる訳です。そういう時には必ず私が神様を思いよる時です。
 今日もねこの十八日のお月次祭に、みなさんがたくさんこうしてお参りになっておる、そのお参りになった一人一人がお参りをした甲斐のあるお参り、お参りしてよかったというおかげを頂いてもらいたい、持って帰ってもらいたい。それにはどういう今日はお話をさせて頂こうかと、しきりにそのことだけを思うておったんですね。だから杓を持ち替えて来ることも、自分が教帽をかぶって鏡を見てくることも忘れた。そういう中に私の心の中に金光教の信心とは素朴だなと。もう素朴なもんだと。金光教の信心ほど素朴なものはない。
 人間は土より出でて土に帰ると言われるのだから、だからその道中とても土の心で生涯を終わらせて頂けるような生き方を見に付けることなんだ。お道の信心とは素朴なもんだなと。そこには因縁もあるかもしれぬ。罪もあるかもしれない。けれども教祖が教えられる素朴な和賀心の前には、その罪も因縁も、それこそ霜に煮え湯をかけるようになくなる。和賀心の前には。そういう素晴らしい信心を、もう素朴に素朴に、人間は土より出でて土に帰るんだと。
 今度、新たな教典が百年祭を目指して出るそうですが、その中の一部が発表されているのをこの頃見て私は驚いた。というのは人間が土から出でて土に帰ると、またそういう意味のことをいくつも教祖様がおっしゃっておられる。今までの教典にはなかった。そのなかった前から合楽では人間は土より出でて土に帰るんだということを皆さんにも聞いて頂くし、また教祖の神様もだから、その道中とても土の心で過ごせよとはおっしゃっていない。これは合楽だけが言うておる。
 こんなに素朴な、簡単な話はないですね。それでいて土の心にならせて頂いておれば心も広うなり、豊かになり、大きゅうなる。しかも和賀心は自ずと育ってくる。我情も取れてくる。我欲も取れてくる。わが身は神徳の中に生かされている喜びに浸ることが出来る。しかもその和賀心の前には、今も申しますように、因縁も罪も言うならば原罪も輪廻も問題ではなくなってくる。私どもの生きている、幸福に生きることにおいては差し支えがないのである。というほどしの生き方をね、教祖は教えておられる。
 ところが余りにも素朴な表現で教えておられますので、なかなかそれが難しいように見える。かえって難しいように見えたけれども、合楽ではそれを現代の人でも、なるほどと合点がいくように説き明かされつつあるのが、今日の合楽理念であると。そしてほんとに金光教の信心て素朴だなと思うておったら、進めば進むほど、その広さに限りがない。深さにまた限りがない。極めようとすれば極めようとするほど、その奥がへと信心の奥がに進んでいくことが楽しゅうなって有り難うなって、この心を持ってあの世行きをされるとするならば、あの世へ行くということの恐怖感もなくなる。言うなら死生の安心が生まれてくる。そして教えられる、この世はあの世のためにあるのだということが実感できるようになるから、死生の安心、喜びの生活ということになる訳なんですね。
 ですからね、極めるところ、その極める焦点をね、お互いそれぞれの信心の段階においてです、それを実験実証、そしてそれを自分のものに一つ一つをしていく自分の力とも思えれる感れれるおかげを頂く生活が信心生活だと思う。
 今朝の御理解に「一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになる」と仰せられる。一人がおかげを、「一粒万倍と言おうが」と一人がおかげを受けたために千人も万人もおかげを受けるようになる。私はその御理解が今日始めて、そのことが分かったような気がするんです。もう度々この御理解を頂きましたけれども、今日ほどそのことを身にしみて有り難いと思うたことはございませんでした。一粒、その一粒の種というのが、千人も万人も助かるほどしのことになるという、その一粒とは、その種とはどういう一粒の種を言うのであろうか。貧しい種ではいけない。枯れておってはなおさらいけない。生き生きと万倍の繁盛、繁栄をみるような一粒とは、一人がおかげを受けたために…。
 今日、竹内先生が今度のおかげの泉か新聞の記事をあれは何というところ、合楽示現活動というところの蘭で半面を使って、ここで熱心に信心をなさっておられる方達と一問一答のような形式で出ておりますのを、今度は行橋の堀内さんにお願いをした。書き出しのところに、その思いとか願いを、まあ端的に書くなら、どういうふうに書いたらよいでしょうかと相談をした。そしたら一晩待ってくださいというて翌日、返事があった返事が「合楽理念を制するものは世界を制する」と、まあえらい大きな大変なことを言わっしゃるねと。しかしよう考えよったらですね、確かに合楽理念は世界を制するだけの、言うなら教祖様は「金光教の信心によって世界を包み回す」とこう仰せられる。その包み回すということを合楽的に申しますと、「和賀心時代を世界に」ということである。和賀心時代を世界にということのためには、まず合楽理念のマスターから、その合楽理念とは、勿論助かりの理念であると同時に、どこの誰にでも入っていけれる。どこの人にはむくけれども、こちらの人にはむかないということがない。人間の、天地の道理を説いてあげたら、ああなるほど素晴らしい教えだ、しかも助かりが直結しておる。しかも信心とは今まで茨の道を歩かねばならないように思うておったり、小さい迷信にこだわって、窮屈なかえって思いをしなければならないと思うておったのが、もう広々とした、しかも人間が人間らしゅう生きながら、そのみ教えを行じていけれる教えであるのですから、なるほど世界のどこへ、制するというとなんかこう制圧するというふうに聞こえますけれどもね、言うなら教祖の神様が世界を包み回すと仰せられる、そういうことだと私は、また包み回せれるだけの内容をもっておるということでございます。
 今朝からもその堀内さんの話がたまたま、この頃毎日参られますが、最近ここ4、5ヵ月ぐらいでしょうか、あちらに熱心な信者さんが集まって毎月共励会があっております。先だってから初めてその共励会おかげを頂いたという方が、もうとにかく合楽から見えた先生方の話を聞いて感動した。そしておかげを受けた。明くる日参って見えて、こういう有り難い神様をこういうお粗末なところにお祭しとってはもったいない。せめて畳替えでもさせてください。もう畳がぶよぶよになっとったらしい、十二畳のお広前。初めて参って来て初めて感動して、合楽理念に触れて感動しておかげを受けた人が、ぜひ畳替えをさせてくれと言うて申し出があっておるとこの頃からお届けがあっておりましたが、今日参ってみえて、それが見事に出来上がって、みんなの者が驚いております。というのがその畳の縁が黒にオレンジ色の菊の花を配した柄がついておる。もうほんと恐れ入ってしまうというて、それが出来るというので、前後して1間半ぐらいな御神前だそうですが、そこにミスをお供えしたいという人が出てきた。昨日参って来た時にはその横に半間床に大黒様を奉斎しておる、そこにもやはりミスがあったがいいんじゃないでしょうかと。合楽もそこの廊下の向こうにもやはり張ってあるでしょう。やっぱそっちから見て感じがいいでしょう。だからあれを見てしたほうがいいんじゃないでしょうかという信者があって、とにかくお伺いをしてそうさせてもらおうというような働きが起こっておる。毎朝たくさん朝参りがある。そしてこれは上野先生から聞かせて頂いた話ですけれども、御祈念をする、御祈念が終わったら教典感話をもうそれこそほんとに、押しいただいて神ながらに開かれる。その雰囲気というものが、その雰囲気を見ただけで、信者が感動するという。そして言わば堀内さんが頂かれた、そこのところを読んでもらう、みんながそれでおかげを頂く。有り難いから、最近ここ4、5日お参りが続いています。今日お参りをしてきた信者の中で合楽参拝をさせて頂くために、十人乗りの車を買わせていただこうという話がおこっていますがお許し頂くでしょうかというようなね。一人がおかげを頂いたために千人も万人もおかげを受けるようになる。そんならその堀内さんの信心とはどういう信心だったのか。
 今朝からの御理解にも申しましたように、普通ではとてもにこにこでは受けられないのを心からにこにこで受けておられる。これはもう経済の問題、人間関係、これはちっとこの人は違うてある、ばかんごとあるというところがあるような感じ。今朝から今日も研修の時に話したんですけれども、やっぱちった人間が違わにゃでけんとじゃなかじゃろかと言うくらいに、言うならば受け方が素晴らしい。名人なんです。普通で言うならば相手につかみかかってでも行きたい、それが女の心、例えばある事件のことですけれども、それをにこにこで受けて、そしてそれを第三者も、自分の対象とする人も、自分も一体に助かっていくという。そういうことがどうして出来るかというと、なら只今申しますように「合楽理念を制する人は世界を制することができる」と確信している。合楽理念とはそんなに素晴らしい助かりの理念なのだと。だから土の心で行くに極まったんだと、信じ、それを思い込んで実験するだけのことである。そしてその実験するところから実証が生まれてくる、いよいよそれを確信をもって人にも伝えることができる、人もそれによって助かることができる。
 私は今日、一粒万倍ということを、なるほどお互いがその一粒にならなけいけないが、「いちりゅう」とは一粒という意味ですよ。一粒の種にならなければならないが、そういう種を目指さなければならない。そういう種とはです、先だって私があることをお願いさせて、その御祈念のあとに「悲しい」という字を頂いた。ちょっと書いてみて、悲しいという字を非という字を書いて下に心と書いてあるでしょう。それに神様が御理解くださるのに「心にあらず」ということ、心にもない、言うならば子供が親の言うことを聞かない、思うようにならないと、それほど悲しいことはない。自分の思うようにならないほど悲しいことはないけれども、その悲しいが通り越えて、もうそれはこの世で生を受けているかぎり、このくらいな悲しみやら苦しみはもう当たり前のこと。この世は苦の世であり、苦の世界だとも思い込んでしまっておる。思うようにならんのが浮世なんだと、諦めてしまっておる。そういう悲しいことをです、諦めてしまっておるというのが、私は信心のない多くの人である、信心の薄い多くの人である。そしてその御理解にね、「なるほど自分の思うようにならない事ほど悲しいことはないけれども、これが思い願い以上のおかげを頂くための修行であると思うたらお礼が言える」と頂いたんです。
 これも天地の親神様の心を心憎いほどに表現したみ教えだと思うです。思うようにならんことがいっぱいある。悲しいこともある。けれどもそれが思うようにならんのが浮世でなくて思い以上、それこそ夢にも思わなかったようなおかげに進展していく、進んでいく修行であると思うたら有り難い。そこの思い込みができるように合楽理念は説いてある。堀内さんは、そこんところの体得がきちっと出来た。
 ある時合楽の御理解を一人で頂いておられた。そしてこの有り難い気持ちを人にも聞いてもらおうとテープに収めようとして、テープに吹き込んでしまって、その後から聞かせて頂いて驚いた。みなさんも婦人大会の時に頂かれた、あのテープである。どんなに考えてもこの世の人の声とは思われないような、それも切々と頼むように願うように神様の心を吐露しておられるようなところが一節出てくるんです。声色がぴしゃっと変わる、それだけ。そういう不思議な働きを受けられてのことではありますけれども、神様に願われておる自分、堀内家には神様の大きな願いがかけられておる。
 今、小学校三年生ですかね、良太郎君という、かわいらしい子です。非情に音楽の才能がある子です。それが神様からお知らせを頂く。そのお知らせもびっくりするようなお知らせを頂く。そういうところからでもありましょうけれども、堀内家はただならぬことがあるんだなあ、これは神様の期待が大きいんだなあ、その願いに応えるために、合楽理念による助かりを頂かれるようになってから、今言うように普通で言うなら腹の立つことも、情けないと思うことも、情けないとも思わん、言うならにこにこで、ありがたく受けさせて頂けるようになってきた。合楽理念に基づいたら、どういう場合であっても、これにどういうような心持ちになったら、有り難いという答えが出るであろうかと、有り難いという心を答えに出していくということの生き方を身に付けなければいけない。
 最近、「信行、心行、家業の行」と言われる。今までは「心行、家業の行」であった。それを「信行、心行」と重ねていく、字が違う。勿論、心行とは表行全廃ですから心の行を本気でさしてもらう。信行とは信心の行。もうお月次祭だけはどんなことがあっても、もしお参りすることを腹に決めたら、それは信心の行になるでしょうね。今日は暇だからいっちょお月次祭に参ろうかというのとは違う。もう行のように「お月次祭という時にはどんなことがあっても」という、これが行である。朝参り、これもやはり信行である。ご自分の家で朝晩神様の前でお勤めをする、仏教で言うと勤行と言うそうである。言うなら時間を決めて御祈念をする。もう心ゆくまでの御祈念が出来る。
 最近、「大払い信行」というのがなくなったから、昨日も合楽会の時に話しが出たんですかれども、今までは大払いを5巻も10巻もあげておった。心が静まってよかったけれど、今度、祈願詞ですか、祈念詞、繰り返してあげられないような、あまり内容が分かりすぎてね。分かり過ぎてあげられないような感じがする。そこで昨日いろいろ共励会の先生が「御神号奉唱」をしたらどうだろうかと、「生神金光大神、生神金光大神、生神金光大神、」をそれこそ千回も二千回も、いうなら心の落ち着くまで、御神号を唱える。「南無妙法蓮華教」というのと理屈は同じことである。もちっと念が入ったがよかなら「生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」という天地書附を繰り返し繰り返し奉唱するようなこともいいだろう。工夫しなければいけないなと昨日話したことでしたけれども、そこはめいめいの工夫によってです、家族ができれば勢を揃えて、夜の8時なら8時、合楽の御祈念に併せて。
 先だってからそのことのお願いが秋山総代さんからあっておりましたが、ところがこの頃主人が朝参りが、もうやっぱりお年ですからね、きつい。その話をさせて頂いたら、その翌日から主人が「もう御祈念の時間だ。いっしょに御祈念しよう」というようになってくれました。夫婦で言うならば声を揃えて信行をさせて頂くことの有り難さ。昼間どういうことがあったにしても、そうして信行を唱えながら御神前に向かわせて頂いている間にあれもこれもみんな有り難いものになっていくという働きがあるんですね。しかもそれを見たり聞いたりしておる子や孫やらが、必ずその感化を受けないはずはないです。
 私はこの田主丸の上の麦生というところが母の里でございます。じじと婆と二人でお百姓しておりました。ですからいつもかつも行っておったわけではない。交通の便が今のようによくない時ですから、まあ言うなら取り入れか忙しい時ににお手伝いに行く時に、まあ私を連れて行ったぐらいでしょうけれど、もうこれは子供心の眼底に焼き付いておる。どんなに忙しい時であっても、お風呂入って着物着替えたら、両親がそれこそ明々とお仏壇の前にお灯明を上げて、そして長々と、真宗でしたからお経を上げ終わらなければ休みませんでした。だからたまたま時々行っておって、私がそのお経も覚えるくらいだから、いかに熱心であったかということが分かる。「南無…」というて覚えとる。私どもは浄土宗ですから、そんなことは関係ない。けれどもね、その老夫婦の信心というものが、このように私に感化を与えておるということなんです。勤行ということの大切さを思います。 ですから皆さんの心行の中に、もう一つ信行を、信行、心行、家業の行、そういう心の状態で、言うなら心が有り難い、もったいないという時にです。例えば悲しいことが起こっても、思うようにならないことがあっても、これこそ思い以上、夢にも思わなかったおかげの展開となるための、これが修行であると分からせて頂けるのだ、心が有り難い時には。そういう意味で勤行が必要ではないかなと申しましたことでしたが、みなさんも実行してない方はさっそく実行して頂きたいと思う。そしてそれこそ一粒万倍と仰せられる、その一粒になるほどしの心の状態を頂いて頂きたいと思う。それを言うならこげな素朴なことはない。金光教の信心ほど素朴なものはない。とにかく人間というものは土から出でて土に帰っていくのであるから、その道中とてもやはり土の心で生きることの術をいよいよ体得して自分のものにしていくということが、金光教の信心である。
 先ほど村川という方がお届けをしておられました。先だって始めて近所の方を連れて参ってくれという方を連れて参って来た。難儀な問題である。帰られたら早速、その朝お夢を頂かれた。そのお夢が、あげな夢は今まで見たこともないというて、合楽の先生にお伺いしてくれと、それが「大きな大根」を頂いた。ほんとに合楽にお取り次ぎを頂いてお願いをすると、早速、神様の働きが始まるなあ、大きなおかげを頂きたい。それには言うならば大根である、大きな根である、根は心である、いよいよ心を豊かに大きくすることを先に、言うなら合楽理念は心が豊かになり、大きくなる手立てを説くのである。大きくなろうとして大きくなれない。そこには腹が立っておったことも寂しい悲しい思うようにならんというイライラモヤモヤも大きな心の中にはもうただ有り難いというだけになってくるような心が大きくなっていく。
 そしたら、私もその朝お夢を頂いたと言うて今でしたけど、お届けされるんですけど、これは信心の大事なところを頂いておられるんですけれども「階段がある。ところが私の知った方で、その村川さんの知ったお友達の信心のない方が、もうトントンと登っていかれた。自分も登っておるけれども四つんばいになってやっと、それこそしょうしんしょうしんで登っておる。ところが上の方にこういう落とし穴ではないけれども危ないような個所があった。信心がないけれども具合よういって商売が繁盛しておる。もう信心のある者から見ておったら、こんなに危ないことはない。先にどういうものが待ち構えておるか分からんけれども平気でそこを登っておるのが、信心のない者がそれこそトントンと、信心が分かれば分かるほど慎重になる。そこを一つ一足を信心の教えに基づいて登るというような生き方の場合です、なんか信心のない者が楽なごとあるけれども、上には大きな落とし穴がある、落とし穴のような壊れたところがあったとこういうのである」
 わたしどもがほんとに言わば場合には今日私が出掛けじゃないけれども、何を考えとっただろうか、ぼやっとしてテレビ見とっても物言いよるとが分からんでこうやって見よるテレビは見よらん、心の中に神様のことばかり考えよる。今日皆さんにどういう話をさせてもらおうかということばかり考えておるもんだかから、この教帽をかぶっても鏡を見てこなかった。杓を取り替えることも忘れて、ここに出て来ておる。ぼんやりしておるというても、ぼんやりのし具合が違う。そのぼんやりをしておるところだけを見ると、信心のあると信心ぼけすると言われますけれど、その信心ぼけが素晴らしいんです。私は堀内さんなんかもいよいよ信心ぼけしてあると思うです。ところがどうですか、最近その周囲に人が助かるということ。しかもすさまじいいまでの働きが、そこのお広前に小さいお広前ですけれど起こっておるということ。初めて参った人が、こういう有り難い神様をこういうお粗末なところにお祭しとってはもったいないというて、畳替えを申し出たという。それにはじかれたように参って来る信者さん方がミスのおかげもいただく、自動車のおかげも頂きたいというような働きまでになっておる。おそらくそういう生き方ができる限り一粒万倍ともなりましょう。
 ただ一人がおかげを受けたのでとう、一人が病気でおかげを受けたのとは違う、最後に千人も万人もおかげを頂くようなということにつながっていくところに一粒でなからなければならないと思います。どうぞ。